投資に役立つ! 天才ハムスターの徒然日記

投資や起業、生活に役立つ情報やタダの余談をお伝えします。語り部はは極々天才(※ハムスター比)で、あくまで可愛いゴールデンハムスター『はむ・すぶた』。斜め上から目線だが、本質的には、たん…純粋で天然。好きになったら一途なのだ。 一途。 そんな人とは違う視点で綴る一風変わったブログを末永くお付き合いください!

【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した その⑬

 

はじめに

このシリーズは

この道1万時間を優に超える小生の独断的考察で

「血統こそが、唯一の競馬予想方法」という極論を基に

最終的に、"誰もが使える競馬予想" に

うっかり たどり着いてしまうシリーズである。

 

ちょっと長期連載である。

末永くお付き合いください♡

 

バカと天才は紙一重

外から観察した様子だけを語ると

凡人には理解できない故に、そう評されることが多い。

 

馬鹿と天才は紙一重のイメージです

やや前者よりの紙一重

 

事実、オルフェーヴルとは、そんな競走馬だった。

 

2010年8月14日

ドリームジャーニーの主戦ジョッキーを務めていた池添謙一を背に

新潟競馬場の芝1600メートルで行われた新馬戦でデビュー。

管理するのは、兄と同じく池江泰寿調教師。

 

 

レースは、最後の直線で早め先頭に躍り出たオルフェーヴルが、

そこから出走メンバー最速タイの上がり3ハロン33秒4の末脚を繰り出し後続を完封。

初勝利を挙げる。

 

しかし、ゴール後、そのまま内ラチまで切れ込み、池添を振り落として放馬。

ウイナーズサークルでの記念撮影が中止となった。

そして、この一件が後々まで語られる衝撃の序章でもあった。

 

思うのだが、池添謙一は、

文句なく凄いジョッキーなのだが、

馬には、あまり好かれていないのかもしれない… 残念だ。

 

 

数奇にして

そして、翌2011年。

日本は未曾有の大災害に見舞われる。

 

3月11日

東日本大震災

筆者が実際に撮影した2011年7月の気仙沼市
柱に掛けられていたヌイグルミに投げやりなジョークを思う。


 

それでも、なんとか、競馬は行われた。

毎週行われると疑うこともなかった"日常"という奇跡。

そんな中、彼らは生涯に一度のクラシックの年を迎えることとなる。

 

そして、その年、オルフェーヴル

ドリームジャーニーの果たせなかった牡馬クラシック制覇を果たす。

 

 

生涯一度のチャンス

4月24日。牡馬クラシック第1弾の皐月賞

震災の影響で、舞台が従来の中山競馬から東京競馬場に変更され

当初の予定より1週間遅れの開催である。

 

オルフェーヴルは、前哨戦にこそ勝利したものの

それ以前の戦績が考慮され、単勝10.8倍の4番人気に甘んじた出走だった。

 

府中の芝2,000mでは不利と言われる外枠の18頭立て12番枠からスタートしたオルフェーヴルは、鞍上池添に導かれ、やや後方の内ラチ沿いを進む。

 

中間1,000mの通過は60.3秒。そんなに早くはない。

 

4コーナー手前。

馬群が固まっていくのに合わせて、徐々に順位を上げていく。

 

そして、迎えた最後の直線。

池添は愛馬を、馬場の真ん中を狙う武豊騎乗の1枠2番ダノンバラードの更に内へ導く。

オルフェーヴルは、馬群を縫うように割って出て先頭へ。

 

直線の急坂を上り切ったところで、1番人気のサダムパテック

内から馬群を抜け出し、他の馬を置き去りにする。

 

「初めて府中の直線が短く感じた」(池添談)

 

しかし、オルフェーヴルの末脚の勢いは、更に違う。

2着サダムパテックを3馬身後ろに置き去りに、一冠を達成する。

 

 

そして、ダービーへ

「勝つのは、ダービーでいいから」

池江泰寿調教師が、騎手池添謙一に語った言葉である。

 

ドリームジャーニーを管理した経験から、

オルフェーヴルに目先の勝利ではなく、徹底的に"競馬" というものを

根気強く教える方針を伝える言葉だった。

 

そして、5月29日。

2008年に生まれたサラブレッド7,458頭の頂点を決める東京優駿日本ダービー)。

 

オルフェーヴルは、2着ウインバリアシオンに1と3/4馬身、

3着ベルシャザールには更に7馬身の差をつけて、優勝する。

 

 

「ずっと乗ってきた強みがある。テン乗りの馬にだけは負けたくないと思っていた」

 

池添謙一のダービー優勝インタビューである。

 

デビュー以来、ずっとコンビを組み、

オルフェーヴルに"競馬"を教えたという自負。

そして、ダービーで急遽、世界№1騎手 デットーリに乗り替わりを選び

前走14番人気から一挙に3番人気に推された

デボネア陣営に向けてのセリフであることは言うまでもない。

 

余談だが、この年の日本ダービーで、

デビュー以来ずっとコンビを変えずに臨んだ馬が他に2頭いる。

奇しくも、オルフェーヴルを含むその3頭全てが

ステイゴールド産駒だった。

 

三冠への挑戦と絆

こうして、オルフェーヴルは、秋

ディープインパクト以来となる

6年ぶり史上7頭目三冠馬を目指す唯一の挑戦者となる。

 

前哨戦、神戸新聞杯をほとんど鞭を使われることなく

2着ウインバリアシオンに2馬身半差をつけて完勝すると、

いやが上にも『三冠馬誕生』の期待に、競馬ファンは盛り上がった。

 

そして、迎えた10月23日菊花賞当日。

約6万8,000人の観衆が京都競馬場に駆け付ける中、

単勝支持率58.28%、単勝オッズ1.4倍の圧倒的な1番人気に支持され

オルフェーヴルは、レース本番を迎えることとなる。

 

穴党の唯一希望は、

「3,000mの長丁場。

 利かん気の強いオルフェーヴルが我慢できるか

 というか、我慢しないで!」

それだけであった。

 

池添は、後日、この日を迎えるまでのことをこう語っている。

 

「験をかつぐのに、GIの前日には、いつもカツ丼を食べるんですけど、

 当時、京都競馬場の調整ルーム(※)の食堂のメニューに、カツ丼なかったんですよ。

 それで、金曜日に調整ルームに入る前に食べたんですけど、

 土曜日の日替わりメニューが結局カツだったんです(笑)。

 でも、そのときに勝てるなと思いました」

(※ JRA全競馬場に設けられた騎手専用の宿舎。

 JRAの騎手はレース前日午後9時までに入ることが義務付けられている、とのこと)

 

平昌オリンピック 男子フィギュアスケート

フリーの演技を終えた直後、

「勝ったぁ!!!」

と、叫んだ羽生結弦を思い出す。

 

まだ、ライバルのフェルナンデスと宇野昌磨の出番が終わっていなかったけど…

 

そして、羽生結弦の予感同様

オルフェーヴルも、菊花賞を勝利する。三冠馬の誕生である。

 

 

勝ち気そうなイメージからは意外な感じもするが、

池添は、かなりの緊張しぃである。

 

レース後、

「馬に心配はなかったのですが、

 人間は記事とかプレッシャーをかけられるので勝ててホッとしています。

 最初の下りのコーナーでかからないように気をつけていました。

 馬の後ろに入れて我慢させて、

 オルフェーヴルには我慢してくれとお願いしていました。」

と、インタビューに応えていることからも、

本番までのプレッシャーが相当であったことと

それでも、オルフェーヴルという馬を信じきっていたことがうかがい知れる。

 

陣営、騎手の努力が実を結んだ瞬間だった。

 

ちなみに余談だが、

実は三冠達成のゴール後、池添は鞍上でガッツポーズをしていない。

というより、ずっと警戒していたので、しなかったというのが正しい。

 

何をか?

オルフェーヴルの利かん気を、である。

 

そして、案の定、

1頭になったオルフェーヴルは、ゴール後、外ラチに向かって爆走!

デビュー戦同様に池添を振り落としたのだった。

 

"信頼関係" という言葉について、深く考えさせられる。

 

競馬が与えてくれるもの

年が明け、オルフェーヴルは、皐月賞日本ダービー菊花賞の3冠に加え、

年末の有馬記念も制したことが評価され、年度代表馬に選ばれる。

 

ちなみに、年末の有馬記念

当日は朝から好天に恵まれていたが、

オルフェーヴルが先頭でゴール板を駆け抜ける直後から雪がちらつき始め、

表彰式は幻想的な雰囲気の中で行われることとなった。

https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201112250007-spnavi

 

 

年の初めに未曾有の大災害に見舞われた日本。

原発事故から計画停電や物資の不足。

何かとデスピア的、世紀末的な想像を否めなかった日常のなかで、

"必需品"でなかった競馬。

 

そんな出来事の直後の3月26日

ドバイで開催された当時世界最高賞金の "ドバイワールドカップ" で

ヴィクトワールピサが日本調教馬として初めて優勝を果たす。

 

そして、三冠馬の誕生。

 

競馬は、いつも我々に夢を見させてくれる。

我ながら陳腐で使い古された物言いだが。

 

ちなみに、ヴィクトワールピサの優勝インタビューで

騎乗したミルコ・デムーロ

「日本が大変なときに、日本の馬で優勝できたことが

 日本人として一番うれしい」

と、言ってくれたことが、涙が出るほど嬉しかった。

 

厳密には、君は日本人じゃないけど。

 

2011年、我々は競馬に

オルフェーヴルに多くのものを与えてもらった。

翌2012年は、オルフェーヴル自身の為の年になる。

誰もが、そう信じ、期待した。