投資に役立つ! 天才ハムスターの徒然日記

投資や起業、生活に役立つ情報やタダの余談をお伝えします。語り部はは極々天才(※ハムスター比)で、あくまで可愛いゴールデンハムスター『はむ・すぶた』。斜め上から目線だが、本質的には、たん…純粋で天然。好きになったら一途なのだ。 一途。 そんな人とは違う視点で綴る一風変わったブログを末永くお付き合いください!

【書籍化決定】【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した が、本になりました

これまで、このブログでご紹介してきた

 

【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した シリーズの

 

電子書籍が決定しました!

 

期間限定キャンペーンなので、是非ご一読ください。

Kindle unlimitedにも対応してます!

 

 

 

【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した その⑯

 

はじめに

このシリーズは

この道1万時間を優に超える小生の独断的考察で

「血統こそが、唯一の競馬予想方法」という極論を基に

最終的に、"誰もが使える競馬予想" に

うっかり たどり着いてしまうシリーズである。

 

ちょっと長期連載である。

末永くお付き合いください♡

 

勝つためにまた戻る

翌年、オルフェーヴルは国内で1戦した後、

再び凱旋門賞を目指し欧州遠征へと乗り出す。

 

その間、池添は、4月からフランスへ遠征していた。

前年指摘された「ヨーロッパでの経験不足」を補い、

凱旋門賞オルフェーヴルの騎乗依頼をもらうためである。

 

しかし、高が騎手の努力など、

人間の思惑には勝てないのである(某有名プロ野球オーナー風)

 

「昨秋の遠征時、スミヨン騎手はレース騎乗だけでなく、

 オルフェーヴルに付きっきりで調教をつけてくれた。

 そういう精力的な姿勢も評価したうえでの契約になったのではないか

サンデーレーシング 吉田俊介代表談)

 

既に、オーナーであるサンデーレーシングとジョッキーの間で

フランス2戦の優先騎乗の契約が交わさせており、

4月末には、管理する調教師の池江の下に、その契約書が届けられたのだ。

 

しかし、思う。

オーナー会社の代表が「~ではないか」?

 

どこの世界にも中間管理職というものは、存在するものだ。

 

日本が本気になった

10月6日。

あの日から1年が経つ。第92回凱旋門賞

 

2013年の凱旋門賞には、

その年の日本ダービー馬で、前哨戦を勝ったキズナ武豊を背に参戦した。

 

「日本が本気で凱旋門賞を獲りに来た!」

 

現地、ヨーロッパの競馬関係者は、肌感覚で危機感を抱いた。

 

当日、日本人約6,000人が押し掛けたロンシャン競馬場で迎える本番。

昨年同様、後方外目にポジションをとるオルフェーヴル

キズナは、その後ろを進む。

 

フォルスストレート。

馬群が、ぎゅっと凝縮する。

オルフェーヴルはその馬群の中央。キズナオルフェーヴルの外に並びかける。

 

そして、最後の直線。

日本馬2頭とも、完全に先頭をとらえられるポジション。

 

キズナ=武豊オルフェーヴル=クリストフ・スミヨン

ほぼ同時に愛馬を仕掛ける。

 

しかし、

先頭に走ったのは、その年の仏オークストレヴだった。

直線追いすがるものの、オルフェーヴルトレヴの5馬身後ろの2着。

 

キズナはその2馬身後ろの4着。

 


凱旋門賞制覇という扉が、去年は一瞬開けることができて

 ゴール寸前で閉じたという感じだったが、

 今年はその扉に手をかけることすらできなかった」

 

池江は、完敗を認めざるを得なかった。

後のトレヴは、2014年の凱旋門賞も連覇する。

 

 

ひとつの想像を携えて

帰国したオルフェーヴルは、

暮れのグランプリ有馬記念で、ファン投票1位に選出される。

そして、それが現役最後のレースと定められた。

 

鞍上は池添謙一

 

このオファーを受けたときの池添の心境は量り知れない。

 

ただひとつ

確かなのは、ここで池添が、

「いまさら、なに言ってるんすか!」

と、オファーを叩き返したとしても…

 

ならば、誰もが納得する形で!

 

最後の競走がスタートする。

福永祐一騎乗のルルーシュが逃げる。

オルフェーヴルは、同じステイゴールド産駒でGI5勝(当時)

ライアン・ムーアに乗り替わって臨んだゴールドシップの直後、後方4番手を進む。

 

前半1,000m通過60.8秒。

淡々とレースが進む。

 

3コーナー。

馬群がぐっと凝縮する。

オルフェーヴルが、馬群の外から前のゴールドシップを交わし徐々に先団へ。

 

最終コーナー。

オルフェーヴルは、早々と先頭に立ってします。

 

そして、

オルフェーヴルは、まっすぐ走った。

後続の馬が、離れていく。

これがラストラン。

更に走る。

 

2着につけたその差は、なんと8馬身。圧勝である。

 

「僕はオルフェーヴルが世界一強いと思います」

池添は、有馬記念の表彰式で、そう応えた。

「泣かんとこう」

レース前から、そう決めていたという。


有馬記念に関しては、勝つというのはもちろんですが、

 種牡馬として無事に馬産地へ送り返すことも重要な使命になります。

 だから、リスクをともなうほどの強い調教はできませんし、する気もありません。」

調教師の池江は、レース前にそう応えている。

 

2013年、CSの番組「武豊TV! 2」の人気企画

ジョッキー新年会に呼ばれたとき、

武豊オルフェーヴルのことを聞かれたとき、こう応えていた。

 

凱旋門賞は…まだ乗せてもらえるか分からないですけど、

 でも、絶対に乗りたいです。

 オレしか知らないクセとかあるんで」

 

もし、アノ凱旋門賞に池添が乗っていたら~

もし、次にオルフェーヴルのような仔が生まれたら~

 

見守ったファンも、池添と同じことを想像したに違いない。

 

そして、オルフェーヴルもまた、次の闘いへと旅立っていく。

そんな想像を携えて。

 

 

もうひとつの想像

話しを、父ステイゴールドに戻す。

 

競走馬時代同様、それ以上に種牡馬になってからは、

人間のバックアップがなければ、成功など覚束ない。

 

ステイゴールドは、種牡馬デビューの時点で、

最高のバックアップがほとんど期待できない環境

故郷である社台グループの恩恵を預かれない状況からのスタートだった。

 

「そんな中での、この成績… 正直、奇跡に近い。

 ステイゴールドを手放したのは、社台グループの痛恨の極み」

 

社台ファーム代表で、社台スタリオンステーション代表取締役である

吉田照哉は、後日そう評している。

 

つまり、逆説的だが、社台グループの人間をして、

ステイゴールドの本当の競走能力を推し量ることが出来なかった

もしくは

SS系種牡馬の能力は、その競走能力に準拠するという法則を信じ切れなかった

ということなのだろう。

 

確かに、種牡馬の成績でいえば、

ディープインパクト産駒のほうが圧倒的に安定感がある。

 

しかし、父にも似た狂気じみた、それでいて怪物じみた産駒を輩出したのは

ステイゴールドのほうだった。

 

もし、ステイゴールドが本気で走ったならば。

そんな想像が、また楽しくなる。

 

 

2015年2月5日

ステイゴールドはこの世を去る。

死因は大動脈破裂。

遺骨は、繋養先のブリーダーズスタリオンステーションに埋葬された。

 

その血は、オルフェーヴルを始め、

多くの子どもたちを通して、後世に伝えられていく。

 

またその中から、ステイゴールドのような

オルフェーヴルのような仔が生まれるか、それは分からない。

 

でも、父を超える仔は必ず生まれる。

 

きっとまた、

楽しい想像をさせてくれる競走馬に出会えるよ。

 

【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した その⑮

 

はじめに

このシリーズは

この道1万時間を優に超える小生の独断的考察で

「血統こそが、唯一の競馬予想方法」という極論を基に

最終的に、"誰もが使える競馬予想" に

うっかり たどり着いてしまうシリーズである。

 

ちょっと長期連載である。

末永くお付き合いください♡

 

人間の思惑。予想外の展開。

 

7月15日

オルフェーヴル凱旋門賞挑戦が正式に表明される。

また、その際に騎乗するジョッキーについて、池添謙一から

欧州で活躍するトップジョッキー、クリストフ・スミヨン

乗り替わることも併せて発表された。

 

理由は、池添がフランスでの騎乗経験がなかったこと。

それに対し、スミヨンは2003年のダラカニ

2008年のザラカヴァと2度の凱旋門賞の優勝経験がある。

 

メジャーリーグや欧州サッカーなど、

日本人選手が活躍する様が日常的に報道されるようになり、

外国人選手に対し、ひと昔前のように絶対的劣勢を感じなくなったスポーツが多い。

 

しかし、今日の競馬においては、

「外国人ジョッキーである」という理由だけで

大変ありがたがる傾向が顕著である。

 

外国人ジョッキーをカタカナ騎手と呼ぶのは如何かと

カタカナ騎手

むしろ、ルサンチマンに近いかもしれない。

 

「また、カタカナ騎手が勝ったよ」

 

と、失笑ともつかないセリフが、

競馬場や場外馬券場のそこ各所で聞かれることが

それを裏付けている。

 

実際、世界的にも活躍するトップジョッキーが来日し、

騎乗する場面が増えてきている。

彼女、彼らは、技術的にも実績的にも充分に素晴らしい。

 

それでも、と思う。

 

池添謙一を背に乗せないオルフェーヴルが、

もし凱旋門賞を日本馬が初めて勝ったとしても、

心の底から喜べるのだろうか? と

 

優勝劣敗の世界の話しである。

ウェットな人情劇だけではやってはいけないことは承知している。

 

確かに、その時点で池添は

実績や技術の点で、スミヨンに劣っていたかもしれない。

 

しかし、池添が、100%スミヨンに勝っていた部分がある。

 

オルフェーヴル」を知っていたことである。

 

フランス遠征

9月16日。凱旋門賞の前哨戦フォワ賞

最終の調教の際に、実際にオルフェーヴルに背中を感触を体験したスミヨンは、

スローペースにやや折り合いを欠きそうになるオルフェーヴルを宥め、

見事、先頭でゴールへと導くことに成功する。

 

「前哨戦として、余力を残しながら、本番に繋がるよう良いレースが出来ました」

(スミヨン談)

 

「ジョッキーは、調教に乗って、コントロールし易いと言っていましたが、

 必ずしもそうではないところを、身をもって感じてもらえたと思います。

 馬だけでなく騎手にとっても、本番に向けてよい経験になったと思います。」

(池江調教師談)

 

そして、10月7日。

第91回凱旋門賞当日を迎える。

 

この凱旋門賞

過去に欧州調教馬以外の優勝馬が出ていないことでも有名である。

ヨーロッパ全体のプライドを感じさせる。

 

それでも、日本馬は、その制覇に最も近づいた瞬間が過去2回あった。

(※ 2着は過去4回ある(2020年9月時点))

1つが、オルフェーヴルの先輩三冠馬ディープインパクト

そして、もう1つが、エルコンドルパサーである。

 

欧州が本気になった日

エルコンドルパサーは、1999年

凱旋門賞に挑戦すべく、主戦場であった日本を離れ、

ヨーロッパへの長期遠征を決断する。

 

凱旋門賞はポンといって勝てるようなレースではない。

 腰を据え、挑戦しないといけないと考えている」

 

ブリーダーでもあるオーナー渡邊は、そう言って、自費を叩いての長期遠征であった。

 

当時まだ、日本の競馬はヨーロッパでの地位は高くない。

どんなに強い馬といっても、参加賞が良いところだろう。

ヨーロッパの競馬関係者は、そう高を括っていた。

 

しかし、7月4日、その評価は一変する。

GI サンクルー大賞 芝2,400mへの出走。

 

前年の全欧年度代表馬ドリームウェルをはじめ、

前年の凱旋門賞勝馬サガミックス、ドイツの年度代表馬タイガーヒルなど、

欧州を代表する錚々たるメンバーが集まる中、

エルコンドルパサーは、2着タイガーヒルに2馬身半の差をつけて優勝。

 

2,400m=1.5マイルは、クラシックディスタンスと呼ばれ、

凱旋門賞や各国のダービーをはじめ、世界の多くの格式あるレースが

この条件で施行されている。

 

その条件で行われる、競馬発祥の地 本場ヨーロッパのGIレースを

日本から来た馬が制覇したのである。

 

しかし、そうやすやすと、最高峰の牙城を引き渡すわけにはいかない。

ヨーロッパ全体が本気になった瞬間であった。

 

 

10月3日、凱旋門賞本番を迎える。

エルコンドルパサーは、

その年の愛ダービーモンジューに次いで2番人気に推される。

 

最内枠のゲートに入ったエルコンドルパサーは、

絶好のスタートを決め、先頭でレースを展開することとなる。

 

ここで不思議なことが2つ起こる。

 

ヨーロッパでは、陣営の本命馬に有利なペースになるよう

ペースメーカーとなる馬を出走させることがある。

 

このレースにも、モンジュー陣営のペースメーカーが出走していたのだが、

"何故か" 先頭に立ってペースを作ることをしなかった。

 

結果、押し出されたエルコンドルパサーが、終始先頭を走るレース展開になる。

 

これが1つめ。

 

そして、もう1つ。

ヨーロッパのレースは、よくスローペースになる。

その為、ぎゅっと固まった馬群のまま、レースが進み、

最終の直線に入ったときに、ヨーイドンという展開になることが多い。

 

結果、内ラチ側を走っていた馬は、前や横を走る馬が壁になり、

その壁を抜け出せず、不本意な結果に終わってしまうことも起こりうるのだ。

 

その例の通り、このレースもスローペースで進み、

1番人気のモンジューは、終始、内ラチ沿いの馬群の真ん中6番手で

レースすることを余儀なくされていた。

 

最後の直線。

エルコンドルパサーは後続に2馬身ほどの差をつけたまま、ラストスパート。

 

そのときである。

"何故か"モンジューの前に、ぽっかり進路が開いたのである。

 

後続との差を広げるエルコンドルパサー

その隙間から外に持ち出し、猛追するモンジュー

後続の馬は、全くついてこれない。

 

残り100m。2頭が完全に並ぶ。

モンジューが前に出る。

エルコンドルパサーが盛り返す。

 

そして、ゴール。

半馬身差。モンジューエルコンドルパサーの先にゴールを切った。

 

やはり、壁は高い。でも、ただくやしい。

それでも! いつかは。 そう思わせてくれた最初の瞬間だった。

 

翌日、現地メディアは

「チャンピオンが2頭いた」

と報じた。

 

3着馬は、モンジューエルコンドルパサーに遅れること6馬身。

それでも、勝者の名前は1頭分しか余白を許さなかった。

 

そして、ひとつの結末へ


第3コーナー。

変わらず後方2番手を進む。

馬群はやや縦長。

 

そして、第4コーナー。

それまでオルフェーヴルが落ち着いて走れるよう、

並走して走っていた僚馬アヴェンティーノが、お役御免と、外に進路を取り

オルフェーヴルに道を譲る。

 

そして最後の直線。

大外から馬なりのままポジションを上げるオルフェーヴル

スミヨンの追い出しに応え、残り300mで先頭に。

さらに後続を突き放していく。

 

勝った!

 

日本中のファンが思った。

1969年スピードシンボリの挑戦から数えること43年。

しかし、勝つときというのは、こうもあっさり…

 

そう思った、まさにその時である。

 

オルフェーヴルが、内ラチに向かって急激に斜行したのである。

そう。父ステイゴールドのラストランのように。

 

急速に失速してしまったオルフェーヴルを、

鞍上スミヨンは、右からの鞭で必死に立て直す。

しかし、内を真っすぐ走ってきた牝馬ソレミアに並ばれる。

 

そして、ちょうど交わされたところがゴール板だった。

 

大きな失敗やチャンスを逸したとき、人は、誰かに責任を負わせたくなる。

 

「日本の競走馬が世界のトップレベルにあることは事実だが、

 自分の技術が世界レベルになかった。」

 

「調教と前哨戦に乗った感触で、スミヨンはオルフェーヴル

 乗りやすい馬だと思ってしまった。

 もっと、広い調教場などで乗ってもらって、

 ああいう癖のある馬であることを体験させておけば良かった。」

 

調教師の池江は、そう後悔を述べ、

「勝つためにまた戻ってくる」と総括した。

 

 

 

【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した その⑭

 

はじめに

このシリーズは

この道1万時間を優に超える小生の独断的考察で

「血統こそが、唯一の競馬予想方法」という極論を基に

最終的に、"誰もが使える競馬予想" に

うっかり たどり着いてしまうシリーズである。

 

ちょっと長期連載である。

末永くお付き合いください♡

 

そして世界へ

年が明け、2012年。

現役最強の日本代表馬。

次の舞台は、当然『世界』。

 

オルフェーヴル陣営の2012年の最大の目標は、

秋にフランスで行われる事実上の世界一決定戦

凱旋門賞

に定めることとなる。

 

 

当面の目標は、春の大レースGI『天皇賞(春)』。

未だ未対戦の古馬を相手に、国内平定を目指す。

 

しかし、ここでオルフェーヴルの悪癖が、嫌な形で顔を覗かせることになる。

 

歴史に残る前哨戦

3月18日

オルフェーヴルは、天皇賞の前哨戦、阪神大賞典芝3,000mに出走する。

秋のフランス遠征を見据え、スローペースのレースの中で折り合いをつけ、

好位から抜け出す「普通」の競馬を陣営は志向したのだ。

 

レースでは五分のスタートを切ると
オルフェーヴルは、鞍上池添になだめられ、3番手でレースを進める。


最初の1000メートルの通過が64秒9。

陣営の思惑通りのスローペース。

 

しかし、1周目の4コーナーで早くもレースが動く。

 

スローペースを早めに察したナムラクレセント

外を進むオルフェーヴルの更に外を一気に捲って先頭へ。

 

それに反応してしまったオルフェーヴル

我慢が利かずに1周目のホームストレッチでナムラクレセントの2番手に、

そして、遂に向正面の入口付近では先頭に立ってしまう。

 

そして、ここから歴史に残るレースをオルフェーヴルは展開することとなる。

 

先頭に立ち、1頭になってしまったオルフェーヴル

そう、1頭になってしまったオルフェーヴルは、自分の役割を思い出す。

 

そして、2周目の3コーナー。

オルフェーヴルは、使命を実行する。

 

そう、オルフェーヴルはレース中にも関わらず、

外ラチに向かって逸走したのだ。

 

上にいる池添を振り落としてやるぅ!

 

…と、考えたかは分からないが、

場内モニター、競馬中継をみていたファンには、

急激に失速し、馬群に沈んでいったように見えた。

 

悲鳴があがる。

 

故障発生? 現役最強馬が!?

 

オルフェーヴルは、馬群の最後方付近にまで位置取りを下げてしまう。

 

しかし、いつもと違うことが一つだけあった。

そう、鞍上池添が、振り落とされていなかったのである。

頑張った! 謙一!

 

なんとか池添が鞍上で立て直した直後のことである。

オルフェーヴルは内ラチ側に他馬がまだ走っているのを見つける。

 

(あ、まだレース終わってなかったっすか!?)

 

再びハミをとり、ありえない加速でレースに復帰するオルフェーヴル

そして、その勢いそのままに、最終コーナーでは先頭に並びかける!

 

しかし、さすがにロスが大きい。

 

内ラチ沿いをロスなく走ったギュスターヴクライ

半馬身捉えきれずに、2着敗戦となった。

 

黒歴史に残るレースである。


2012/03/18 第60回 阪神大賞典(GⅡ)【ギュスターヴクライ】 kei baさんのページ

 

「100メートルは余分に走っていた」(池添談)

 

そうコメントが残るほどの逸走に対し、

いうまでもなく、平地調教再審査の制裁が与えらる。

 

三冠馬年度代表馬にも輝いたトップホースの再審査は異例中の異例である。

 

しかし、それでも勝ち負けにまで持ち込んだ破天荒さと能力は、

ファンや競馬関係者をして、

オルフェーヴルは常識でおさまる馬でないこと

少なくとも、優等生でないことを、かえって印象付けることとなった。

 

汚名返上の世界へ

その後出走した「天皇賞(春)」で、

オルフェーヴルは、生涯最低の11着に敗れる。

 

体調が優れなかったことに加え、

開催された京都競馬場の馬場状態が好みでなかった為、

途中で、レースを投げてしまったらしい。

 

2019年高校野球岩手大会決勝で、

最速163キロをマークするプロ注目の右腕

佐々木投手を連投による故障を防ぐため登板させなかった

大船渡高校の国保監督の"英断"を思い出す。

 

故障したらしたで、

それを乗り越える復活劇で感動させろ

ということなのだろうか。

 

 

しかし、ステイゴールドには、人間の思惑など、知ったことではない。

とはいうものの、その "人間の思惑" に生かされているのも事実。

 

ファンの期待を裏切った代償として、

今年最大の目標である凱旋門賞への遠征は、次走の結果次第ということとなった。

 

そして、体調がまだ整わない中、負けられない

夏のグランプリレース『宝塚記念』へと出走する。

 

レース後、池添はスタンド前で涙を流した。

 

 

「ホントにキツくて…ホントに良かったなって思います。」

 

「この馬の強さって言うのを、やっとね。

 一番強いと思っていたし、やっと見せることができて…

 本当にありがとうございます」


「ファン投票を、ここ2走不甲斐ないレースだったんですけど、

 1位に選んでいただいて、本当にありがとうございます。

 1番人気でしたし、その期待に応えたいと思って一生懸命乗りました!

 これからも、オルフェーヴルを追い続けて下さい!!」

 

最後は笑顔だった。

 

池添謙一は、勝利騎手インタビューでよく泣くジョッキーである。

感情を素直に表に出す人間なのだろう。

そして、馬に対して、真摯なのだ。

 

こうして、オルフェーヴル

世界最高峰への挑戦権を手に入れた!

目指すは、フランス。第91回凱旋門賞である。

 

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凱旋門賞が行われるパリ・ロンシャン競馬場
ちなみに2017年改装中 (中央は筆者)

 

【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した その⑬

 

はじめに

このシリーズは

この道1万時間を優に超える小生の独断的考察で

「血統こそが、唯一の競馬予想方法」という極論を基に

最終的に、"誰もが使える競馬予想" に

うっかり たどり着いてしまうシリーズである。

 

ちょっと長期連載である。

末永くお付き合いください♡

 

バカと天才は紙一重

外から観察した様子だけを語ると

凡人には理解できない故に、そう評されることが多い。

 

馬鹿と天才は紙一重のイメージです

やや前者よりの紙一重

 

事実、オルフェーヴルとは、そんな競走馬だった。

 

2010年8月14日

ドリームジャーニーの主戦ジョッキーを務めていた池添謙一を背に

新潟競馬場の芝1600メートルで行われた新馬戦でデビュー。

管理するのは、兄と同じく池江泰寿調教師。

 

 

レースは、最後の直線で早め先頭に躍り出たオルフェーヴルが、

そこから出走メンバー最速タイの上がり3ハロン33秒4の末脚を繰り出し後続を完封。

初勝利を挙げる。

 

しかし、ゴール後、そのまま内ラチまで切れ込み、池添を振り落として放馬。

ウイナーズサークルでの記念撮影が中止となった。

そして、この一件が後々まで語られる衝撃の序章でもあった。

 

思うのだが、池添謙一は、

文句なく凄いジョッキーなのだが、

馬には、あまり好かれていないのかもしれない… 残念だ。

 

 

数奇にして

そして、翌2011年。

日本は未曾有の大災害に見舞われる。

 

3月11日

東日本大震災

筆者が実際に撮影した2011年7月の気仙沼市
柱に掛けられていたヌイグルミに投げやりなジョークを思う。


 

それでも、なんとか、競馬は行われた。

毎週行われると疑うこともなかった"日常"という奇跡。

そんな中、彼らは生涯に一度のクラシックの年を迎えることとなる。

 

そして、その年、オルフェーヴル

ドリームジャーニーの果たせなかった牡馬クラシック制覇を果たす。

 

 

生涯一度のチャンス

4月24日。牡馬クラシック第1弾の皐月賞

震災の影響で、舞台が従来の中山競馬から東京競馬場に変更され

当初の予定より1週間遅れの開催である。

 

オルフェーヴルは、前哨戦にこそ勝利したものの

それ以前の戦績が考慮され、単勝10.8倍の4番人気に甘んじた出走だった。

 

府中の芝2,000mでは不利と言われる外枠の18頭立て12番枠からスタートしたオルフェーヴルは、鞍上池添に導かれ、やや後方の内ラチ沿いを進む。

 

中間1,000mの通過は60.3秒。そんなに早くはない。

 

4コーナー手前。

馬群が固まっていくのに合わせて、徐々に順位を上げていく。

 

そして、迎えた最後の直線。

池添は愛馬を、馬場の真ん中を狙う武豊騎乗の1枠2番ダノンバラードの更に内へ導く。

オルフェーヴルは、馬群を縫うように割って出て先頭へ。

 

直線の急坂を上り切ったところで、1番人気のサダムパテック

内から馬群を抜け出し、他の馬を置き去りにする。

 

「初めて府中の直線が短く感じた」(池添談)

 

しかし、オルフェーヴルの末脚の勢いは、更に違う。

2着サダムパテックを3馬身後ろに置き去りに、一冠を達成する。

 

 

そして、ダービーへ

「勝つのは、ダービーでいいから」

池江泰寿調教師が、騎手池添謙一に語った言葉である。

 

ドリームジャーニーを管理した経験から、

オルフェーヴルに目先の勝利ではなく、徹底的に"競馬" というものを

根気強く教える方針を伝える言葉だった。

 

そして、5月29日。

2008年に生まれたサラブレッド7,458頭の頂点を決める東京優駿日本ダービー)。

 

オルフェーヴルは、2着ウインバリアシオンに1と3/4馬身、

3着ベルシャザールには更に7馬身の差をつけて、優勝する。

 

 

「ずっと乗ってきた強みがある。テン乗りの馬にだけは負けたくないと思っていた」

 

池添謙一のダービー優勝インタビューである。

 

デビュー以来、ずっとコンビを組み、

オルフェーヴルに"競馬"を教えたという自負。

そして、ダービーで急遽、世界№1騎手 デットーリに乗り替わりを選び

前走14番人気から一挙に3番人気に推された

デボネア陣営に向けてのセリフであることは言うまでもない。

 

余談だが、この年の日本ダービーで、

デビュー以来ずっとコンビを変えずに臨んだ馬が他に2頭いる。

奇しくも、オルフェーヴルを含むその3頭全てが

ステイゴールド産駒だった。

 

三冠への挑戦と絆

こうして、オルフェーヴルは、秋

ディープインパクト以来となる

6年ぶり史上7頭目三冠馬を目指す唯一の挑戦者となる。

 

前哨戦、神戸新聞杯をほとんど鞭を使われることなく

2着ウインバリアシオンに2馬身半差をつけて完勝すると、

いやが上にも『三冠馬誕生』の期待に、競馬ファンは盛り上がった。

 

そして、迎えた10月23日菊花賞当日。

約6万8,000人の観衆が京都競馬場に駆け付ける中、

単勝支持率58.28%、単勝オッズ1.4倍の圧倒的な1番人気に支持され

オルフェーヴルは、レース本番を迎えることとなる。

 

穴党の唯一希望は、

「3,000mの長丁場。

 利かん気の強いオルフェーヴルが我慢できるか

 というか、我慢しないで!」

それだけであった。

 

池添は、後日、この日を迎えるまでのことをこう語っている。

 

「験をかつぐのに、GIの前日には、いつもカツ丼を食べるんですけど、

 当時、京都競馬場の調整ルーム(※)の食堂のメニューに、カツ丼なかったんですよ。

 それで、金曜日に調整ルームに入る前に食べたんですけど、

 土曜日の日替わりメニューが結局カツだったんです(笑)。

 でも、そのときに勝てるなと思いました」

(※ JRA全競馬場に設けられた騎手専用の宿舎。

 JRAの騎手はレース前日午後9時までに入ることが義務付けられている、とのこと)

 

平昌オリンピック 男子フィギュアスケート

フリーの演技を終えた直後、

「勝ったぁ!!!」

と、叫んだ羽生結弦を思い出す。

 

まだ、ライバルのフェルナンデスと宇野昌磨の出番が終わっていなかったけど…

 

そして、羽生結弦の予感同様

オルフェーヴルも、菊花賞を勝利する。三冠馬の誕生である。

 

 

勝ち気そうなイメージからは意外な感じもするが、

池添は、かなりの緊張しぃである。

 

レース後、

「馬に心配はなかったのですが、

 人間は記事とかプレッシャーをかけられるので勝ててホッとしています。

 最初の下りのコーナーでかからないように気をつけていました。

 馬の後ろに入れて我慢させて、

 オルフェーヴルには我慢してくれとお願いしていました。」

と、インタビューに応えていることからも、

本番までのプレッシャーが相当であったことと

それでも、オルフェーヴルという馬を信じきっていたことがうかがい知れる。

 

陣営、騎手の努力が実を結んだ瞬間だった。

 

ちなみに余談だが、

実は三冠達成のゴール後、池添は鞍上でガッツポーズをしていない。

というより、ずっと警戒していたので、しなかったというのが正しい。

 

何をか?

オルフェーヴルの利かん気を、である。

 

そして、案の定、

1頭になったオルフェーヴルは、ゴール後、外ラチに向かって爆走!

デビュー戦同様に池添を振り落としたのだった。

 

"信頼関係" という言葉について、深く考えさせられる。

 

競馬が与えてくれるもの

年が明け、オルフェーヴルは、皐月賞日本ダービー菊花賞の3冠に加え、

年末の有馬記念も制したことが評価され、年度代表馬に選ばれる。

 

ちなみに、年末の有馬記念

当日は朝から好天に恵まれていたが、

オルフェーヴルが先頭でゴール板を駆け抜ける直後から雪がちらつき始め、

表彰式は幻想的な雰囲気の中で行われることとなった。

https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201112250007-spnavi

 

 

年の初めに未曾有の大災害に見舞われた日本。

原発事故から計画停電や物資の不足。

何かとデスピア的、世紀末的な想像を否めなかった日常のなかで、

"必需品"でなかった競馬。

 

そんな出来事の直後の3月26日

ドバイで開催された当時世界最高賞金の "ドバイワールドカップ" で

ヴィクトワールピサが日本調教馬として初めて優勝を果たす。

 

そして、三冠馬の誕生。

 

競馬は、いつも我々に夢を見させてくれる。

我ながら陳腐で使い古された物言いだが。

 

ちなみに、ヴィクトワールピサの優勝インタビューで

騎乗したミルコ・デムーロ

「日本が大変なときに、日本の馬で優勝できたことが

 日本人として一番うれしい」

と、言ってくれたことが、涙が出るほど嬉しかった。

 

厳密には、君は日本人じゃないけど。

 

2011年、我々は競馬に

オルフェーヴルに多くのものを与えてもらった。

翌2012年は、オルフェーヴル自身の為の年になる。

誰もが、そう信じ、期待した。

 

 

【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した その⑫

 

はじめに

このシリーズは

この道1万時間を優に超える小生の独断的考察で

「血統こそが、唯一の競馬予想方法」という極論を基に

最終的に、"誰もが使える競馬予想" に

うっかり たどり着いてしまうシリーズである。

 

ちょっと長期連載である。

末永くお付き合いください♡

 

続・ステイゴールドという奇跡

2002年1月20日京都競馬場

ステイゴールドは、引退式の日を迎えた。

 


ステイゴールド引退式 furuemさんのページ

 

当初は、引退式の予定はなかった。

が、ファンからはもちろん、JRAからも強い要請が行われ、実現したのだ。

香港ヴァーズで使用されたものレプリカゼッケンを着用し、

場内にはスティーヴィー・ワンダーの「Stay Gold」が流された。

 

 

5年間に渡った競走生活。

50戦目の引退レースでの初GI制覇。

 

騎手 武豊「まさに絵に描いたような大団円」

調教師 池江泰郎「映画でもドラマでも、二度とは見られないようなシーン」

雑誌『優駿』「ここまでドラマチックな幕切れはそうそうあるものではない」

 

ステイゴールドは、2001年JRA賞特別賞を受賞する。

そして、新しい戦場へ。

 

種牡馬というたたかい


ステイゴールドは、その競争成績と

母の全兄に、日本最強のマイラーの呼び声も高い

サッカーボーイを持つ血統背景が評価され、

北海道門別町サラブレッド・ブリーダーズ・クラブが運営する

ブリーダーズスタリオンステーション種牡馬入りすることになる。

 

加えて、2年毎にビッグレッドファームでも繋養される契約が結ばれたのだ。

 

ビッグレッドファーム

あの相馬眼の天才、岡田総帥が率いるグループである。

https://www.bigredfarm.jp/

 

 

岡田総帥も、この契約が決まったときに

「今、ウチが望んで手に入れらえる種牡馬のなかで、最高クラスの馬」

と評していたと伝えられる。

 

しかし、日本の競馬界を少し知っている人であれば気付いたはずだ。

 

そう

ステイゴールドは、『社台グループ』の競走馬であったにもかかわらず、

『社台グループ』の種牡馬にはなれなかったのだ。

 

『社台グループ』

言わずと知れた、ガーサント、ノーザンテーストトニービン

そして、サンデーサイレンスを日本に導入し、

日本の競馬シーンを一新させた日本馬産界の重鎮である。

 

今日の競馬では、

社台グループ以外の生産馬がGIを勝つこと、

それ自体がニュースになってしまうほどの圧倒的な存在なのである。

 

 

そして、ステイゴールドは、そのラインを外れてしまったのだ。

 

種牡馬としての前評判

以前もお話した通り、

サンデーサイレンス種牡馬の性能は、その競走能力に準拠する

 

我々素人でも気付いている事実である。

プロ中のプロの社台グループの面々が知らないわけがない。

 

つまり、ステイゴールド種牡馬としての前評判は

「人気の高い馬だが勝ちきれない=そんなに強くない」

というモノだったのだと思われる。

 

社台としても、同じ年に引退し、

競走成績的にも期待の高かった超高速粒子 アグネスタキオンなど、

同じサンデーサイレンス産駒の種牡馬を多く抱えている。

 

そんな中、素人人気があるとはいえ、

期待のもてない種牡馬を繋養することは、

経営的メリットが薄いと判断したことは間違いない。

 

GIを勝ったとはいえ、国内でなかった点、惜敗が多かった点、

ステイゴールドは、能力的に過小評価されたのだ。

 

これは、自助努力だけでは覆せない戦いにおいて、

圧倒的にハンディを背負って出発したことを意味していた。

 

しかし、ステイゴールド劇場は、まだ終わっていなかった。

人間の思惑に反して、

またしても予想とはまるで違うストーリーを見せつけてくれることになる

しかも、もっともステイゴールドらしいやり口で、だった。

 

 

あれ? 親父は誰だ?

2世代目となる2006年。

産駒のドリームジャーニー朝日杯フューチュリティステークスを制して

ステイゴールド産駒としてGI初勝利を達成する。

産駒の初GI馬ドリームジャーニーの画像です

ドリームジャーニー

時事ドットコムニュースよりhttps://www.jiji.com/jc/v2?id=20090610horse_race_13photo

 

しかも、管理していたのは、

あのドバイでステイゴールドの世話を務めていた

池江泰寿調教師である。

 

その後、ドリームジャーニーは、並み居る強豪を打ち破り、

2011年宝塚記念有馬記念の両グランプリを制する。

 

あれ? ステイゴールドの仔だよね!?

勝ち過ぎじゃないか?

 

往年のファンは、そういって笑った。

そういうこともあるんだな。

一頭くらい、そんな子どもが生まれることだって、ね。

 

そのときになっても、まだ、

ステイゴールドの本当の能力に気付いている人間は

もしかしたら、少なかったのかもしれない。

 

そして、

間違っていたのは自分たちのほうじゃないか?

 

そう、人々が気付くきっかけとなる出来事が、この直後に起こる。

 

このドリームジャーニーの引退と前後してデビューした全弟

オルフェーヴルである。

 

【唯一絶対の】競馬の予想方法が判明した その⑪

 

はじめに

このシリーズは

この道1万時間を優に超える小生の独断的考察で

「血統こそが、唯一の競馬予想方法」という極論を基に

最終的に、"誰もが使える競馬予想" に

うっかり たどり着いてしまうシリーズである。

 

ちょっと長期連載である。

末永くお付き合いください♡

 

ステイゴールドという奇跡

前回の続き

teamserene.hatenablog.com

 

ステイゴールドという馬。

愛さずにはいられない

ステイゴールド

JRAポスターヒーロー列伝より(https://jra.jp/gallery/ads/heros/popup/049.html)

 

ポスターのリードにも書かれている通り

現役時代「愛さずにはいられない。」馬だった。

 

競争成績:50戦7勝 GI2着4回 獲得賞金 7億6299万3000円

はっきり言うと、そこまで特筆したものではない。

…まぁ、稼いでるけど。クラブ馬。

 

そう

現役時代、もどかしいほど勝てなかったのである。

しかし、負けていない。何故か2着とか3着とかにいる。

 

そして、2001年 国際GI 香港ヴァーズ 芝2,400m

現役最後の50戦目で、GIウィナーになって引退を迎えたのだ。

 

種牡馬デビュー

GIウィナーとはいうものの

競争成績がそのまま種牡馬成績に比例する傾向がある

サンデーサイレンス産駒の種牡馬としては、物足りない。

 

正直、かなり逆風のなか、第二の人生をスタートすることになる。

 

実は種牡馬にとって、スタート後の成績はかなり重要となる。

何故なら、以前話した通り

産駒の能力は母親に依存する。

 

つまり、期待値の低い種牡馬には、それなりの花嫁しか集まってこないのだ。

 

結果、産駒成績が振るわない

種牡馬のしての人気が上がらない

⇒ 花嫁のレベルが上がらない

⇒ 産駒がそれなり…

 

悪循環に陥るわけだ。

 

どんどん新陳代謝が進む競馬界において、低迷している種牡馬

長くチャンスが与えられることは、そう望めない。

 

ましてや、期待されていないのであれば、なおさらである。

 

人気にあやかって種牡馬にしたけど「見切り」の時期

 

そこまで念頭に置かれてのデビューだったのではないだろうか。

 

しかし、そんな人間の思惑をあざ笑うかのように、

現役時代同様、いや、それ以上の興奮を

ステイゴールドが我々に与えてくれるまで、そんなに時間は要らなかった。

 

 

現役時代の回想

今思い返しても、ずっと疑問に思うことがある。

 

「彼は本気で走ったことはあるのか?」

 

正直、直接来てみないことには分からない。

もちろん、そんなことは出来ないし、

仮に出来たとしても、その機会は永遠に失われてしまっている。

 

何故、そんな風に考えたのか。

現役時代のレース映像を、

「あぁ、また2着だ(笑)」

と、何度となく見直していて、ふと気づいたことがある。

 

最後の直線

勝ち馬に迫った瞬間

ステイゴールドは必ず

勝ち馬と同じ速度に減速しているようにみえたのだ。

 

そして、それは

アノ2000年のGII目黒記念でも。

 

 

あの日は朝から生憎の空模様で

レースの時間になっても、雨が降りやまなかった。

 

しかも、土曜日。

翌日にGIオークスを控える中、

本来なら、そんな観客の入りが期待できるはずもない日だったはずだ。

 

府中の直線は525.9m。

大逃げをうったホットシークレットを捉え、マチカネキンノホシが先頭に。

その外を走っていたステイゴールドは、鞍上武豊に導かれ、内に切れ込む。

その時の脚色は、追いすがる他馬を、そして先頭のマチカネキンノホシ

完全置き去りにできる勢いだった。

 

その瞬間である。

 

「今日は、このくらいでいいだろう?」

 

明らかに、ステイゴールドはそう言った。

そして、脚色を先頭のマチカネキンノホシと全く同じに合わせたのだ。

 

これまでだったら、そのまま2番手でゴール。

観客も「まただよ(笑)」と、納得してお開きになったことだろう。

 

しかし、その日はひとつだけ状況が違った。鞍上が武豊だったのである。

 

武豊「え? まだだよ?」

ステイゴールド「え? マジで!?」

 

約5万人。

鞍上 武豊を背に、ステイゴールドが先頭でゴールを駆け抜けた瞬間、

雨の府中競馬場を地鳴りのような拍手と大歓声が包んだ。

 

実は、この勝利が、サンデーサイレンス産駒重賞100勝目。

スター性とは、こういうことを言うのだと、知らしめてくれた。

 

あの時の彼の走りが「本気」だったかは分からない。

でも、最後まで気を緩めなかったことは確かだった。

武豊が、ゴールまで気を緩めることを許さなかった。

 

これはジョッキーのせいにしたくはない。

これまでの主戦ジョッキー熊沢氏の存在あっての

ステイゴールドであることは否定できない。

 

しかし、現役時代を振り返り、

ステイゴールドを最後まで油断させずに走り切らせたジョッキーは3人しかいない。

 

武豊

藤田伸二

そして、後藤浩輝

 

戦績としては残っていないが、2001年京都大賞典

ステイゴールドは、当時現役最強だった

「世紀末覇王」テイエムオペラオーに唯一完勝を果たした馬である。

 

その時の鞍上が今は亡き後藤浩輝

結果は失格となったが、今でもあれはステイゴールドの勝ちだと思っている。

私の手のひらに握りしめられていた

ステイゴールド単勝馬券が、影響していたかは不明である。

 

そう、ステイゴールド

油断せず走ったときは、負けていないのだ。

 

 

現役時代の回想 その2

今から思い返せば、もうひとつ

ステイゴールドを油断させない方法があったのかもしれない。

 

それは、日本から脱出することである。

 

事実、ステイゴールドは海外のレースでは負けたことがない。

たとえ、世界ナンバー1ホースを相手に回しても、だ。

 

 

2001年ドバイミーティングで行われたドバイシーマクラシック

 

当時GIIだった、この芝2,400mのレースには、

2000年エミレーツ・ワールドレーシング・チャンピオンシップで優勝し、

さらには欧州年度代表馬にも選出された

地元ドバイ競走馬 ファンタスティックライトが参戦し、

さながら、ファンタスティックライトの凱旋を祝う為のレースの様相を呈していた。

 

対するステイゴールドは、メインレース「ドバイワールドカップ」に出走の

同厩舎トゥザヴィクトリーの帯同馬として来ちゃいました♡ という感じ。

 

しかし、そのレースで、ステイゴールドは、

日本全体が『本当に騙された!』と思うような衝撃を演出するのである。

 

 

バレないと思ったのか!?

 

レース当日2001年3月24日。

奇しくも、その日はステイゴールドの誕生日だった。

 

しかし、ドバイまでの30時間近いフライトの影響か、

ただでさえ小柄だったステイゴールドの馬体重は30kg近く減ってしまい

正直、お世辞にも状態は芳しくなかった。

 

 

実際に、現地での管理を任されていた池江泰寿調教助手(現 調教師)をして、

レース前日から全くカイバを食べなくなったステイゴールドを前にして、

レースで騎乗することになっていた同級生の武豊に、

レース前にも関わらず詫びをいれずにはいられないほどだった。

 

 

しかし、それでも…

日本のファンは、また驚かせてくれるのではないか!? 淡い期待をしていた。

 

 

直線。満を持して馬群を抜け出し先頭に躍り出る

世界№1ホース ファンタスティックライト

鞍上は真っ青なゴドルフィンの勝負服に身を包んだ、

これもまた世界№1ジョッキー フランキー・デットーリ

 

 

その瞬間、競馬場全体が予定調和なハッピーエンドに盛り上がっていた。

 

 

次の瞬間である。

一瞬前が壁になったため、馬群を抜け出すのが

ファンタスティックライトから数瞬遅れたステイゴールド

馬群の外へ持ち出し、ただ一頭、

先頭のファンタスティックライトに一完歩ずつ差を詰める。

 

 

私にはアラブの言葉は分からない。

もちろん、その時現地に居たわけではない。

 

でも、たぶん現地の人は口々にこう言っていたと思う。

 

「はっは。なにか分からないけど、小さな馬が

 我らのファンタスティックライトの後ろで頑張っているぞ!」

 

そして、ファンタスティックライトと並びかけたところがゴール板だった。

 

映像的には、微妙に遅れているように見えた。

実際に、日本でレース中継を見ていた皆が思い、そして声に出した。

 

「はっは。ステイゴールドまた2着だよ(笑)

 

 

数分後。

1着 ステイゴールド

 

アナウンスが告げる。

 

 

おそらく、ドバイも、日本中も一瞬完全に沈黙したと思う。

そして、その後に自然とこみ上げてきたのは、日本側の爆笑だったに違いない。

 

そう、完全に裏切られたのだ、期待を。

上回られてしまった。

 

日本中の誰もが思ったに違いない。

 

「お前、海外だから、本気だしてもバレないと思ったんちゃうか!?

 みんな、みてたぞ、お前のレース(笑)」

 

ちなみに、この勝利が

日本馬のドバイ初勝利であり、

サンデーサイレンス産駒の日本調教馬、海外発重賞勝利であった。

 

が、そんなことは、もはや何の箔付けにもならない。

誰もがそう思ったに違いない。

 

現役最後のたたかい

その後、ステイゴールドは日本に戻り、4戦走った。

しかし、結局、念願のGIを勝つことは出来なかった。

 

年齢的にも、今年いっぱいでの引退は既定路線。

これだけの人気馬である。血統だって優秀だ。

どうしても第二の馬生 ”種牡馬” として成功する為にも、GIという実績が欲しい。

 

そして、陣営が現役最後に選んだレースは

香港国際競走デイに施行される国際GI香港ヴァーズ 芝2,400mだった。

 

ちなみに、このレースに向かうまでの国内4戦。

帰国初戦の宝塚記念GIこそ、安定の4着とキャラを忘れない働きをしたが、

次のGII京都大賞典は、先述のレースである。

 

ちなみに、そのレースで "完敗" した当時の現役最強馬テイエムオペラオー

その前年、ジャパンカップで、件のファンタスティックライトを負かしている。

 

なんか、ドバイの王族に日本嫌われそうで心配になる(笑)

 

そして、GI2連戦。

ステイゴールドは、以前から指摘されていた

左にモタれる悪癖に、更に磨きがかかったような感じがあった。

 

牝馬には、たまに起きることがある。

どんなに男馬勝りと言われるような牝馬でも、引退の時期を自覚すると

次の闘い=繁殖に向け、自分の体を労わるのだ。

 

そうなるともう本気で走ることは、リスクでしかない。

それだけ競走馬の "本気" は、狂気じみている、とも言えるのかもしれない。

 

 

もしかしたら、ステイゴールドはもう本気を出す気がないのか?

そんな "不安" がよぎる。

 

しかし、陣営は、左目だけにブリンカーをつけるなど、

悪癖を封じるための万全の対策を講じ、最後の戦いに悲願達成を託した。

 

 

香港国際競走

通常、競走馬の名前は、日本ならばカタカナで

海外ならば、音に準じたアルファベットで表記される。

 

ステイゴールドの場合、ドバイでは"Stay Gold"。

スティーヴィー・ワンダーの楽曲から命名された同馬は、そう表記された。

 

しかし、中華圏である香港では、すべて馬名が漢字表記となる。

しかも、日本のカタカナのように表音文字として変換されるわけではない。

 

まぁ、もし漢字でソレをされたら、正直笑えないのだが。

 

その馬名の持つ意味を組んで、熟語として変換される。

たしかに、「マジ!? それは…どうなの?」 と思うものもあるが、

どんな漢字に変換されるか?

それも香港国際競走ならではの楽しみのひとつである。

 

 

そして、ステイゴールドに与えられた漢名は

 

「黄金旅程」

 

ここまで来ると出来過ぎのドラマである。

 

そして、50戦の長く短かった旅程は、ここでひとつの区切りを迎える。

 

 

また、お前かよ!?

2001年12月16日。

香港シャティン競馬場

 

ステイゴールドは、ラストランにして、GIで初めて一番人気出走することとなる。

 


スローで淡々とレースが展開する。

ステイゴールドは後方10番手辺りの少し外目。

いつもより後方の位置取り。

 

そして、レースが動いたのは3コーナー。

 

ゴドルフィンの真っ青な勝負服を纏う世界№1ジョッキー

デットーリ騎乗のエクラーが一気にスパートを掛け、後続を置き去りにする。

 

そして、直線。

追い上げ、2番手に上がったステイゴールドと先頭のエクラーの差は約7馬身。

完全にやられた! 常識的には絶望的なリード。

デットーリのスーパーファインプレイである。

 

 

しかし、そこから

ステイゴールドは、最後の衝撃を見せてくれる。しかも、2つである。

 

 

絶望的と思えるリードを少しずつ差を詰めるステイゴールド

そこで、陣営も、鞍上の武豊さえも予想だにしなかったことが起こる。

 

なんと、ステイゴールドが生まれて初めて直線 "右" に寄れたのだ!

直線真ん中を走っていたはずのステイゴールドが、

内ラチに激突するほどの寄れっぷりである。 これが1つめ。

 

 

いやいやいやいや

左によれるクセを強制する為に、必死で頑張ってきた陣営の努力って?

 

まさか、最後の最後でも、やっぱ気を抜いて "2着" するのか?

 

 

日本中が、祈る思いと半ば納得するような心境で、そう思った瞬間。

 

 

鞍上の武豊は、瞬間的に右の手綱を緩め、左の手綱をしぼって立て直しをはかった。

 

ここからは、後日、武豊が話していた話しからの想像である。

 

その一瞬、ステイゴールドの目が、ソレを捉えた。

 

そう、あの青い勝負服である。

 

ここは海外。本気出してもバレないよ。

 

ステイゴールドは手前を替える。

差はまだ4馬身。時間にして約1秒。そして残り100m。

 

 

アレ、捕まえにいこう!

 

一完歩ごとに。先頭を走るエクラーとの差が縮まっていく。

 

そして

内ラチ沿いを走るフランキー・デットーリは、

外から抜き去っていくステイゴールドの姿を見て思った。

 

「また、お前かよぉ!!」

 

 

ちなみに、この勝利が「日本産馬初の海外GI制覇」であった。

しかし、これも彼にとっては

むしろ、我々にとっては、

町内マラソン大会の参加賞でもらった鉛筆くらいの価値かもしれない。

 

 

そして、その夜

私はヴーヴクリコを買って、祝杯を挙げたのは言うまでもない。

 

その原資は、その日行われた阪神牝馬ステークス

当たり馬券であったことは余談である。